好きなのは
「いらっしゃいませ、フラガさん。」
今日もいつもと変わらぬ笑顔で俺を迎えてくれる。
そして俺もまた、いつもと同じ、窓際にある一番奥の席へと腰を掛けた。
初めてこの店に来たのは、3週間くらい前になるだろうか。
社運を賭けたと言っても過言ではないほどの大取引に頭を悩ませていた俺は
ふと、このコーヒーの香りにつられて、何の気なしとこの店へ入った。
ゆっくりとしたクラシックジャズの中に絶え間なく聴こえるサイフォンの音。
一本、通りを行けば、賑やかな繁華街があるのだが、
そんな喧騒はここには全くと言っていいほど聴こえては来ない。
まるでここだけ別の時間が流れているような、そんな空間。
初めてこの店に来たその翌日、あれだけ難しいとされていた大取引に成功することが出来た。
気のせいかもしれないが、仕事が上手く行ったのは、
このコーヒー店のお陰だと、俺は思っている。
…否、もっと正確に言えば、このコーヒー店の店員・キラのお陰だ。
「お待たせしました、ハイ。どうぞ。」
そういってキラがテーブルにコーヒーを置く。
最近は、注文をせずとも、キラがオススメをセレクトしてくれるのだ。
「今日は何?」
「深煎りのマンデリンです、他のよりちょっと苦いですので、コレも。」
そういって更にテーブルに出されたのはチョコチップクッキーだった。
コーヒーが苦いから、その口休めということらしい。
クッキーはもちろん、キラの手作りだ。
「サンキュ。」
「では、ごゆっくりどうぞ。」
キラはまたカウンターへと戻る。
再び、店内はジャズとサイフォンの音のみとなった。
本日のキラのオススメである、マンデリンを口に含む。
確かに他のものより苦いようだが、苦さだけじゃなく甘さも感じられる。
「コクがある」とは、こういうことなのだろうか。
最近になって、少しだけ味の違いがわかるようになってきたようだ。
カップをソーサーに置き、クッキーを口に入れた。
コーヒーの苦味と、チョコチップの甘さが混ざって、これまた絶妙だ。
カウンターの内側にいるキラに目をやる。
器具の掃除をしているようだ。
キラはこのコーヒー店のウェイターとして働いている。
オーナーは、店名にもある「アンディ」という人物らしい。
店はキラにまかせっきりで、
とにかく一日中コーヒーと「会話」している人なのだと、キラが言っていた。
ほぼ道楽で店を経営しているようなものなのだろう。
キラは、この店の2階を借りて住んでいるのだそうだ。
以前にズイブンと遅くまで店を開けさせてしまった詫びをしたら、
「通勤時間がゼロですし、オーナーが好きにしていいと言ってくださってるので、
店の開店時間も閉店時間も、ボク次第なんですよ。」とキラは笑った。
カップの中のマンデリンより、やや明るめの髪を揺らして、
器具を拭くキラ。
口元は少し微笑んでいるかのように見える。
伏し目であるため、今はあのキレイな紫色の瞳を見ることが出来ないのが些か残念に思った。
「・・・フラガさん?ご注文ですか?」
俺がじっとキラを見ているから、勘違いしたのだろう。
なんでもない、と誤魔化し気味に、俺は視線をそらした。
そして再びまた、今度はこっそりとキラへ視線を戻す。
ちょっと頬が赤くなっているのは、気のせいだろうか。
ほんのり色づいたキラに、俺の視線はまたしても釘付けとなってしまっていた。
仕事を終えた後、Andy'scafeに立ち寄り、
コーヒーをすすりながらキラと二、三、言葉を交わす。
なんてことはない毎日だったが、
Andy'sCafeで過ごす時間は、ささやかなシアワセであった。
「お先ぃー。」
今日もまた、いつもと同じく会社帰りにAndy'sCafeに立ち寄る。
今日のオススメはなんだろうかと、トレイを持ったキラを思い描いた。
目じりが下がるのは、オススメコーヒーが楽しみというだけでなく、
キラの笑顔に会えるからでもある。
むしろキラ目的の方が割合的に多いのかもしれない。
あの角を曲がれば、いつもの店が見える、
…はずだった。
シャッターが下りている。
そこには、やや急ぎ気味の字で
「しばらく休業します。」と書かれている張り紙があった。
昨晩キラは何も言ってなかった。
筆跡から、急に休業が決まったのだろうかと推測する。
キラが住んでいる店の2階部分に目をやったが、そこに明かりは無い。
出かけているのか、もう寝ているのかは判らないが、
仕方なく、俺は踵を返し、まっすぐ家へ帰ることにした。
キラの「いらっしゃいませ」という明るい笑顔を思って。
家に帰るというのに、足取りは酷く重く感じた。
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